2013-10

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最初のピアノの先生 その3

そのうちだんだん試練が訪れる。その頃、私はそんなにピアノが好きだった訳でもなかったけれど、前述の如く、先生は千葉から静岡まで、新幹線もない時代に、隔週で静岡まで教えにいらしていた訳で、当日行きたくないと思う日があっても、我慢してレッスンには行く、いや、行かざるをえない空気があった・・・まあ、それがチリも積もればではないけれど、継続につながり、小学4年生位になった頃には、以前より、難しい曲も弾くようになって来た。そう、こんな感じでやって行けばいいかな、と思っていた矢先、私はガツンとした思いを味わう。

先生がこれから発表会は、夏休みに東京で、千葉で教えている生徒と合同で行うと決めたのだ。
我等、静岡組は上京して、どこぞに泊まって本番に臨んだ記憶がある・・・
その頃は生徒の数も増えていて、確か昼頃から3部位に分かれて、えんえんと夕方まで発表会をやっていた。
けれど、私は驚いた!う、上手い・・・私より年下という子まで、と言うか、その子は千葉の生徒さんの中でも抜きん出ていた教え子のようだったけれど、演奏には何の無理がない。私達がやっていた音符を読んで強弱等つけて「らしき」形にして来る、本番はなるべく間違わないように弾くとか、そんな段階ではなかった。小学生ながら、もう音楽を自分のものにして噛み砕いている感じだった。これが「井の中の蛙」だと・・・静岡でとってものんびりやっていた~

さてはて、その話は静岡の私達のお母さん方にも同じく驚きを巻き起こし、「すごいですね~ 千葉の方々は皆さんお上手ですね~どんな風に勉強されているんでしょう?」
と質問。すると先生いわく、
「確かにお母さん方の意識も違うんです。本当に皆さん、お子さんのレッスンについていらして、私の言った事をくまなくメモして、次の週までにきちんと練習させて来ていらっしゃいますから・・・本当に熱心です。」
と仰るものだから、静岡の母親達はちょっとバツが悪そうに顔を見合わせていた。

悪い予感・・・まさか私の母も教育ママになるんじゃないでしょうね?!と思っていたら、案の定、小さなノートを開いて右横の椅子に座っているではないか。エッエー?!と思ったけれど、レッスンが始まり、いろいろ先生が仰ったもののあまりペンの動く気配がなく、重い空気・・・いたたまれずチラッとそちらを見たら・・・母はコックリ寝ていた。ホッ!
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最初のピアノの先生 その2

私には姉がいてピアノの練習をするし、時には静岡の先生のご実家でなく、我が家でレッスンする事もあったので、私には音楽は耳学問的な入り方でした。姉が間違えている所を同じ様に弾くので
「また、ちゃんと楽譜を読んで来なかったね。」と注意された事もじばしば!

やめる人もあるけれど新しく入る人もあり、お弟子さんも増え、レッスンも軌道に乗り、ホールを借りて発表会を行う事になった。晴れ着を着せられて、リボンもつけて、客席には大勢の人達が見に来ている・・・言われた通りに弾けばいいのだけれど、なんだかちょっとドキドキ。でも、私はまだ小さかった。晴れ着の言葉通り、これはお祭りと同じ様にハレの日、緊張と一緒にあるワクワク感もあった。無事演奏して舞台袖に戻って来ると、他の年上のお姉さん達は心なしか青ざめて、目をつぶっていたり、楽譜の上でしきりに指を動かしたりしていたのを思い出す。

ところが・・・子供心に忘れられないのは、あのI先生が極度の緊張からか、楽屋でいささか暗い表情をしていた事だ。自分は演奏も終わってルンルン気分で先生の所に報告に行ったら、この日ばかりは「よく弾けたね。」と褒めて下さったが、その後に「いいわねぇ、ゆりちゃんみたいになりたい・・・」と言われた事は忘れられない。
「えっどうして?」と先生に聞き返した覚えがある。すると、先生は、生徒の演奏が全て終わった後に演奏する事になっているのだが、出番が近づくにつれ、震えが来たり、いてもたってもいられなくなるそうなのだ。先生は極度のアガリ性だったのだ。
「先生はピアノ上手だから平気だよ~。」「いや、駄目、駄目なの。」そんな会話をしたように記憶している。
私は何だか、だんだん先生が気の毒になって、「先生、じゃ、こういうの、やめちゃえばいいじゃん。」
これ、静岡弁?!今思えば、のうてんきに言っちゃったものだ。
すると、先生はじーっと私を見つめて、「それはやっては駄目なの。やめるのはね。」と自分に言い聞かせるように言った。
全く私は子供だった。姉に言わせれば、あの先生に平気でそんな事を言えるのは、あんた位だと笑われた。
結局、先生はやや硬い表情ながらもブラームスのソナタを見事に弾きこなし、発表会は無事終了した。
けれど、その後何度も開かれた発表会で、皆が先生の演奏を楽しみに待っていても、結局舞台に出て来れなかった事が何度かあった。完璧主義で、動揺した状態で演奏に臨み、自分が思ったように弾けないなんて、想像しただけでも許せなかったのではないかと思う。
鋼(はがね)の様に強い面と、薄いガラスの様に繊細な面と両極面を持ち合わせている方だったとつくづく思う。



最初のピアノの先生 その1

先日、私のピアノの最初の師匠、I先生が亡くなられました。94歳、敬老の日にお祝いをしてもらい、その後、気分が悪くなられて、あっという間だったと息子さんからお聞きしました。そのI先生には4歳頃から大学生になった位まで師事していました。ですから私の青春時代と重なっており、思い出をあれこれ書いてみようと思います。

I先生は静岡でお医者さんの家に生まれ、当時にしては珍しいピアノがお家にあったそうです。私の母は女学校時代の同級生で、先生は芸大に進まれたそうです。それがわがままなのか、芸術家の信念かわかりませんが、学校では
「手が荒れるから、雑巾がけはしない。」と平気で拭き掃除を拒否していた、と母は苦笑していました。

その後、結婚されて千葉に移り、そこでピアノを教え始められたのですが、静岡のご実家でも教えるという事になり、母は同級生のよしみで、娘達である姉達や私をレッスンに行かせ、他にも私のいとこや友人にも声を掛けて生徒を集めました。
なんとあの新幹線もない時代、先生は月2回、朝5時起きして何時間もかけてレッスンにいらしていたのです。

先生はとにかくまじめで、音楽に向かう姿勢は超厳しい・・・そして気性が激しく、感情が表に出る方でした。
練習をサボり、適当にやって来ようものなら、頭ごなしに怒鳴り、楽譜を投げつけられた人も・・・立たされ、泣いている人の姿も何度か見ました。

今でこそ音楽は音が楽しいと書く、音が苦(おとがく)ではない、といいますが、昔ながらの、バイエル、ハノン、チェルニーといった練習曲をガッチリ(楽しいというものでもありません。)それにあと1曲ベートーベンのソナタとか。発表会の時に誰かが「乙女の祈り」や「エリーゼの為に」とか、少し馴染みのあり、聞き栄えのする曲を弾きたいと申し出ても、「そういうものは弾かなくていいのよ。」と言い切ってしまうのでした!苦行のようなレッスンに、いつの間にか一人、二人と生徒はやめて行ってしまいました。

難しいものです。才能あふれる野球のスター選手が必ずしも教えるのが上手いとは限らないように、元々出来てしまう人は出来ない人が何故出来ないかがわからない、という事があるんですよね。先生は芸大をトップで出られたらしいのですけれど・・・もし、生徒が練習すらして来なかったとなると、怒られてもまあ、これは当然なのですが、練習して来ても、何をどうして、どう弾いたら良いかがつかめなかった、出来なかったという事はよくある事。本当はその子に合わせてどう紐解くかが指導者の腕の見せ所かもしれないのですが、先生は怒っちゃった!!
先生のピアノの音色の美しさや音楽の深さは子供心にも何かすごいと感じました。けれどあまりにも遠い存在で・・・
私は末っ子で幸いまだ幼くて、先生の逆鱗は見ることはあっても、自分に落とされる事はほとんどなかったので、ぼちぼち止めずに続けて来れたのでしょう。

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